ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

頭を締めつける

俳句と散文とは何が違うのだろう?
俳句にはふりがなが振られていないことが多い。

散文にだって難しい字にはふりがながあるものだ。

何故かな。

俳句を読むくらいの人なら読めない文字が無いとでも思っているのだろうか? 

俳句にはふりがなをするべきだ。

ふりがなが無いと不必要にくたびれる。私だけだろうか?

俳句にふりがながあるだけで、

 

俳句の世界が誰にとってもぐっと身近なものになると思うのだ。

俳句にふりがなが無いことで、俳句の世界が遠のいていく。
俳句と散文とは何が違うのだろう?今の私には、まだよく分かっていない。
しかし、俳句には美しさがある。それが感じられる。それはどこからくるのだろう?
俳句は詩である。散文は韻律や定型にとらわれない通常の文章のことだ。
散文の対語で韻文というのがある。調べてみるとそれは一定の韻律(韻律)をもち、形式の整った文章のことだという。
漢文では句末に韻字を置いた詩・賦などをいい、和文では和歌・俳句などをいう。狭義には詩と同義に用いられる。(日本大百科全書より)
賦とは何だ?
中国古典文学の代表的な文体の一つ。

辞賦ともいう。賦とは、元来、敷き延べる意。したがって全編にわたり華麗な辞句を連ね、数十句から数百句にも及ぶ長編作品がほとんどを占める。

戦国末期の楚(そ)国の宮廷文壇からおこり、漢魏六朝時代(前二世紀~後六世紀)をその全盛期とする壮麗な朗誦文学で、対句を主体にしつつ、問答形式を用いたり、長短句を適宜織り交ぜたりするので、『文選』以来いちおうは「散文」として取り扱っているが、押韻や平仄に留意するなど韻文的要素も多分に含んでおり、正確には韻文と散文の折衷様式と考えてよい。

中国古代貴族文学の典型的文体。

韻律とは詩における音声、調を形成するものは韻と律であり、あわせて韻律とよんでいる。

韻とは同音または類似音を配列することで、頭韻、脚韻、半諧音などの種類がある。

また、律とは一句の語数に一定の規約を設けることによって成り立ち、漢詩における五言律、七言律がこれにあたる。

要するに詩の音楽性は、韻と律との二要素を母体とするものだが、律は詩歌の形式、骨組みであり、韻はその内部的な旋律ということができる。テオフィル・ゴーチエは、「作品は苦難を重ねた形式から/一段と美しく/現れでてくる」と歌い、サント・ブーブは、「脚韻よ、歌にひびきを/あたえるもの」と韻をたたえている。(日本大百科全書より)

日本の和歌を例にとっていえば、律は五七調、七五調を基本とする音数律であり、前者は荘重雄大な『万葉集』に多く認められ、後者は『古今集』以後の軽快優美な歌に適したとされている。

 

和歌においては、西欧や中国の詩におけるように、厳密な押韻規則はないが、「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」には、「Hisakata no/Hikari nodo keki/Haruno hi ni/Sizu kokoro naku/Hanano tiruran」とハ行の頭韻が踏まれているし、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の一首では、「行くも帰るも」(Yukumo kaerumo)、「知るも知らぬも」(Sirumo siranumo)といったぐあいに、モ音の脚韻が二つの句節に踏まれている。

しかし日本の伝統詩では、韻の要素は一般的に乏しい。ただし、フランスのマチネ・ポエティクの詩人たちのように、現代詩に脚韻の導入を試みた例もある。

詩のリズム(律)には各国語の特色が生かされている。

ギリシア語ラテン語の詩では母音の長短、英語やドイツ語の詩では強弱アクセントがそれぞれリズムをつくり、強張音の弱いフランス語、イタリア語、スペイン語の詩では、日本語の場合と同じように、音綴(シラブル)の数が基準となっている。

ああ、あ、わ、あ、なんて事だ。

調べるほどに知らない言葉にぶち当たる。

頭がどうかしそうだ。わけわかんないや。しかし、たじろぐな、次行ってみよう。

 文語と口語というのがある。昨日までは、それらがあるらしい、と思っていた。
いままでは気にもしていなかったことなのだ。

文語は書くときの言葉で、口語は話すときの言葉だ。

大辞泉によれば文語は、文章を書くときに用いられる、日常の話し言葉とは異なった独自の言葉。特に、平安時代語を基礎にして独特の発達をとげた書き言葉をいう。

この「平安時代語を基礎にして独特の発達をとげた書き言葉」だなんて、知らなかった。

俳句をつくるには、どうやら、この文語というのを特に学ばないといけないようなのだ。 未知の世界だ。

口語、これも大辞泉によれば、明治以降の話し言葉と、それをもとにした書き言葉とを合わせていう。

平成の今では口語が書き言葉にもなる。 薄々は感ずいてはいたが知らなかった。

文語と口語、誰でも知ってることなのか?私だけが知らないのだろうか? 自分の無知さに愕然とする。

さらに、名詞、代名詞、動詞、助動詞、助詞、形容詞、形容動詞、副詞などという言葉がでてくると頭が苦しくなってくる。もっとイメージが膨らむような、気分がワクワクするような言葉に出来ないものなのかな、と思う。萎えてくる。

名詞は大丈夫。知ってる。名前で呼べるものは皆、名詞だ。

自分の名前は名詞だ。だが私が名詞だと思えない名詞、というのもあるようだ。広辞苑にはそいう部類の名詞がいくつか出ていた。こうなると、名詞であっても、もう未知の世界に迷い込んだように感じる。

代名詞やその他となると、もう怪しい世界のように感じて不安になってくる。心臓も鼓動が激しくなるような。

ごく最近のある日のことだ。日本語の文法をしらべていると、体言と用言という言葉がよく出没する。多くの人はこの事を、この言葉を知っているのだろうか?
知らなかった。私知らなかったよ。

体言とは、名詞と代名詞を合わせたことで、学説によっては数詞も含めるらしい。
用言とは、自立語の中で、活用があるもの。つまり動詞・形容詞・形容動詞のことをそう呼ぶのだ。もしかすると、中学校あたりで習うのだろうか?

アホな若い頃、もう少し勉強しておけば良かったか?と思う。

私は興味が無いと全くものを覚えない。だから当時、学校での勉強は私には拷問のように感じたのだった。

けれど、勉強することは大好きだ。 知らなかったことに出会う喜びというのは嬉しい。しかし、それは私の場合、常に「興味がある」ということとセットでなければダメなんだな、これが。