ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

色を感じる

赤と言っても、いろいろな赤があるし、緑もいろいろな緑がある。
鮮やかな色だけでは、鮮やかには見えないものだ。

鮮やかな色の隣には必ずくすんだ色がある。

自然て凄いよな、と思う。ただ陽が差すだけでそうなる。

 

画家もだた、色を塗る。

けれど闇雲に塗っても自然のようにはならない。なぜだろう?感受性を養う必要がある、と思う。

染めの芸術家志村ふくみさんは、その著書(一色一生(新装改訂版)志村ふくみ著、求龍堂発行)で色に対する感覚を吐露していた。すこし、長いけれどご紹介したい。

「「家の前の古い大きな榛の木を道路拡張のために切り倒してしまって、嘆いていたら、その切り株から地面をまっ赤に染めて木屑が散っていました。

まるで木から血が流れているみたいで、いたましくてじっとしていられない気持ちでした。

その時、何かの本であなたが、

 

木の皮などを煮出して染めていられると書いてあったのを思い出して、唐突ですが、お知らせしたかったのです。この榛の木で何か染められませんか」というのです。
 私は伺っているうちに、もう血が騒いですぐ車を用意して出かけました。

山道は落葉で埋まって、歩きにくいのは数知れないドングリのせいでした。坂道をのぼりつめると、ゆるく曲がった山ぎわに大きな切り株が生々しく、そのあたり一面に赤茶色がにじんでいました。太い幹が幾本もたてかけてあって、その切り口からも色はにじみでていました。

百年以上も経っているという榛の木はじっと樹液を貯めていたにちがいありません。突然切り倒され、切り口を空気にさらしたとき、色が噴き出たのです。

 

 私たちは早速、皮剥ぎ用の刀で、厚い皮を剥ぎにかかりました。表皮の下からあらわれた白い木肌もみるみる赤みを帯び、赤銅色に変わりました。

私たちはせきたてられるように剥いだ皮を袋につめ、いそいで山を下りました。

一刻も早く榛の木の色を見たかったのです。

 

 釜に湯を沸かし、木の皮を炊き出しました。

熱するに従って、透明な金茶色の液が煮上がってきました。

私も地面にひき粉になって散っていたあの赤茶色をみた瞬間、これは染まると思いました。

何かに染めずにいられない。

何百年、黙って貯めつづけてきた榛の木が私に呼びかけた気がしました。榛の木は熱湯の中ですっかり色を出し切ったようでした。
 布袋で漉して、釜一杯の金茶色の液の中に、純白の糸をたっぷりつけました。

糸は充分色を吸収し、何度か糸をはたいて風をいれ、染液に浸し、糸の奥までしっかり浸透させた後、木灰汁につけて媒染しました。発色と色の定着のためです。

糸は木灰汁の中で、先刻の金茶色から、赤銅色に変わりました。まさに地面に散った木屑の色です。

いえ、少し違います。それは榛の木の精の色です。思わず、榛の木がよみがえったと思いました。

 榛の木が長い間生きつづけ、さまざまのことを夢みてすごした歳月、烈しい嵐に出会い、爽やかな風のわたる五月、小鳥たちを宿してその歌声にききほれた日々、そして、あっという間に切り倒されるまで、しずかに、しずかに榛の木の生命が色になって、満ちていったのではないでしょうか。

 色はただの色ではなく、木の精なのです。色の背後に、一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです。
 私は今まで、二十数年あまり、さまざまの植物の花、実、葉、幹、根を染めてきました。

ある時、私は、それらの植物から染まる色は、単なる色ではなく、色の背後にある植物の生命が色をとおして映し出されているのではないかと思うようになりました。

それは、植物自身が身を以って語っているものでした。こちら側にそれを受けとめて生かす素地がなければ、色は命を失うのです」と。
ああ、こういう感性が僕にも必要だ、絵の具で見る色が色じゃないんだ。

ふくみさんのような感覚で色に対するべきだ、ふくみさんのように感じたい、と思う。

そして、それがいつも作品に表現されることを目指そう。