ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

文字だいすき

書道ってアートですよね。

それって、日本ってアジアですよね、みたいな響きです。

私は書道が大好きです。

書くってことが、好きなんです。

好き過ぎておかしくなりそうです。それで気持ちを楽にするために絵を描いたりします。

文字はとても厳しいから、

 

没頭してくると神経がピリピリしてくるんです。

それで、次の日には決まってヘルペスになっちまう。

 書の場合、手本となるものは和歌だったり、漢詩だったり、いろいろです。

書するに値する内容であるなら、何でも良いと思う。

書を良いものにしようと苦心工夫すると、その労力に見合う内容のものを書きたいと思うのが人情であると思う。

書であるものについては、詩の内容よりは、書の視覚的な表現、手跡に私の興味がある。

私は、書というものは文字の表現なので、少なくとも読めないといけないと考えています。

自身の未熟さで読めないのは別として、長い文字の歴史の中にあって読るような字、歴史を感じさせる字でないといけないな、と思う。

私は最低限そういう文字を書きたいと思う。

 

書はアート、と言われる時のひきあいに出されるものに、文字をわざと変に崩して読めないように書いて、作品のタイトルではじめて書いた文字がわかる、そんな作品がある。

それは書としてどうか?と思う。アートとしてもどうか?と思う。

絵を描く観点からすると、誰が見ても読めないような文字を書いて「アート」と言うくらいなら、文字から決裂して抽象画的方向で展開すれば良いのではないかな、と思う。

わざわざ和紙にこだわる必要もないし、文字にとらわれることも無いんだ。

けれども、そういうのは絵としてみると、とっても貧弱に見える作品であることが多くてダメだろうな、良くないな、と思われる。

かといって書としたのでは意味不明過ぎて、卒意の書とも違うものだし。

はじめに文字だよ、っていう建前をチラつかせてこそ、なんとか魅力的に感じれるのかな。

文字の世界に居場所が無いから、文字を匂わせてアートといってしまおう、というのはどうなのかな?と思う。

そういうのは絵の世界に行くべきか。

私はアートといわれるような書を書くくらいなら抽象絵画を描く派です。

抽象絵画はいわば少数民族の言語表現みたいなもので、独自に考案した形に特定の意味を付加することを専売特許とするような分野です。

自由度が文字の比じゃないのです。

それは、自分が文字の開発者たりえるような自由がある。

 

好きなように色を塗りたくったり、形を描いて「これは「春」です」と言ったほうがよほど潔いように感じる。

 

書の世界で「アート」と言って表現している意味不明なのを観ると、書道用具で抽象絵画を描いて「書」としているようにしか私には見えない。

それは良くないと思う。

だから私は、文字は純粋に文字でなくてはならず、普通の人には、なんてことなく見える文字。

何か必要があって書かれた文字、これが良い。

それが、よく観ると「なんじゃ、こりゃ?!」と驚愕する書がたくさんあるんですよね、先達の書の中には。

そんなのを書きたくて文字と遊ぶんだ。