ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

思考・思索の文章化

自分が思っている、あらゆる絵に関する考えを文章にしていこう。

それをもって、他人には自分の絵を理解するための材料にしていくことができよう。

自分には、後に至らない部分に気づくための材料にしてゆける。
仏には経典の一文字一文字がまた仏に見えるのだという。

像法決疑経には「文字によるがゆえに衆生を度し菩提を得」と。

 文字が「幸せに生きるにはどうしたら良いのだろう?」ということの答えを仏に代わって人に伝え、仏と同じく幸せになれることを知るのだ、という。 

 私にとって文字は絵と同じものに見えている。 文字を書くことによって、それを観察していると自分の絵の行くべき道が見えるように思う。

文字は絵の一歩先を行っているような気がするのだ。
けれど絵を描いていると、絵というものの柔軟さによって、文字の表現が飛躍的に豊かになるようにも思える。

文字のつらなりを文章にしてメモしておけば、

 

そこに心境も含まれる。

それを観察することによって絵とそれを描く心境に対する理解も深まるかもしれない。
 以前は、絵というのは、絵を見てもらえば、誰でも理解可能なものであると思っていた。
最近は、どうも、それは違うらしいぞ?と思うようになった。
 漢字を使う人間はあらかじめ文字に、ある程度、理解可能な意味を持たせている。

それを利用する人が一人一人記憶して、その同じ情報を多くの人が共有する。そして文字を使用ルールに則って単語や文章にする。それらを使って多くの人とコミュニケーションをとる。
文字に対すれば絵はいわば、聞いたことも無い種族だけが使う言語みたいなものだ、と思う。
誰にでも理解可能にする絵にするには「誰にでもなじみがある表現」によって表現しなければならない。
絵の世界で、子供から大人までなじみのある表現だけで絵を描くことということ。

それはたとえば、知らない国へ行って、自分がその時聞いた言葉の中で、奇跡的に理解できた言葉だけで話すことにほかならない。
絵は表現の自由度が高いだけに、自分の絵を理解してもらうには、その教材となるものを用意せねばらないのかもしれません。

ゴッホには「ゴッホの手紙」という教材がある。

カンディンスキーには「カンディンスキー著作集」という教材がある。

エミール・ガレには「ガレの芸術ノート」という教材があるように。

大変だなぁ、芸術家って。