ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

今ごろになって、将来

自分はどう成りたいのですか?
簡単だ。世界基準で超一流の絵描きに成りたいのだ。

もう、48なのに? そういうことは、もっと若い頃に言うことじゃないのかい?

何を描きたいのですか?
現時点では色彩の絵を描きたいのだ。色彩のみの配色によって人間の心の瞬間的情緒を表現する絵を描こう。それはまだ自分の知りうる限りでは、やる人が居ない。
それは、個人的でありつつも客観的でなくては理解しにくい。個人的であっても良いが理解のためにテキストを用意しなくてはなるまい。
百年前までは色彩は天性のもので、教えることも出来ない、と思われていたそうだ。
しかし、自分の考えでは人間は何もかも初めから覚えないと何も出来ない生き物だ。色彩だけ天性のもの、とはいかない。

 

自分は色彩のすべてをイッテン先生から教えていただいた。
自分はこの絵を描く、と決めたれば、その点では自分が将来、多くの人から認められるかどうかは関係ないことだ。
認められたいのは、そのことによって身を立てたいと願うからだ。描いた絵によって収入があったらどれほど良いだろう。自分には絵をお金に換える能力は無いようだ。
一生誰からも認められないなら、自分の能力というのは何もかもひっくるめて、その程度なのだ。
しかし例えば、巨木は誰にも見つからなければ巨木とは言えない、なんてことは無いだろう。
ただ見つからなかっただけなんだ。自分が巨木か?という問題はあるにしても。
一つの作品で心の瞬間的情緒が表現されているのかどうなのかは誰にとっても判断が難い、と思う。
色彩は難しい。色彩のみの絵から思想を読み取るのはなかなか大変だ。自分が以前そうであったように、誰しも、ただ単に色が塗られているぐらいにしか感じないのではないだろうか?
 色彩から個人的な何かしらを読み取ることは多少の訓練が必要だと私には思われる。自分は十五年も色彩に取り組んで来たけれど、それがわかるようになったのがこの頃なのだから。
長い間愛したい色、というのは自然のように有らねばならない。人間は自然に馴染むように出来ている。まず自然があって、人間が産まれたからだ。
生理的に無理な配色は一見目を奪うが長い間触れていると我慢ならないものになる。そればかりか人間にとっては体調を崩しかねない。
ガウディは「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物は、自然のそれである」と。自然は素晴らしい。素晴らしいが、よく見ようとしないと素晴らしさが見えてこない。
自然の素晴らしさが見えない人は、田舎に行って「何も無い」と言う。色彩も同じことが言える。よく見ようと努力しないと見えてこない。