ある日の美術

仙台にいて絵を描いたり書をやりながら、もろもろ美的なことを研究してます。

死産児について

カンディンスキーは「どのような芸術作品もその時代の子であり、しばしばわれわれの感情の母である。

こうして文化の各時代はそれぞれ、二度と繰り返すことのできない独特の芸術をつくり上げるのである。

過去の芸術原理を蘇らせようとするくわだては、せいぜい死産児にもひとしい芸術作品を産む結果に終わるであろう」と。
模写によって作られる絵は死産児に等しいものしか出来まい、と思う。

しかし誰が見ても見分けがつかなくなるまで同じであれば、オリジナルはどれほどなのだろう?という驚きが生まれる。

書の世界には双鉤墨といって筆跡の輪郭をしき写して、その中を墨で塗りつぶして同じような書跡を造る。

唐の時代に非常に発達したらしくて、王羲之という人の真蹟と伝えられるものはみな双鉤墨であるという。

王羲之は自分がどう頑張ってもたどり着けないと思わせる名峰だ。書跡の辞典を見ると、ひときわ光輝いている。これで、コピーか。オリジナルはどれ程素晴らしいのだ、と。

 

自然をつぶさに見ていると、これは誰かに操られているに違いない、と思う。

この世界のすべての物には、細すぎて見えない紐がついている。

この誰かさんは、その紐を両手に持って必要に応じて引っ張り、自然の摂理が崩れないように調整するんだ。そうやって操られているのを僕は知っている。

秩序無秩序

ランスコイは「画家は、たぶん知性を持っていなければならないだろう。だが無邪気なままであるべきだ。絵画というものは、完全には統制され得ない行為だからだ」と

。僕もそれに賛成だ。

無邪気さは無秩序であり、知性は秩序ともいえようか。

無邪気さは作品を柔らかなイメージにする。

線に訳すればフリーハンドの曲線、秩序は定規の直線、あるいは勉強した線か。

 

なんでですか?独学

僕は独学で絵を学ぶ。

誰かが間に挟まったものからでなく、できる限り学びたい人の作品および著作から。

偉大な人は必ず、自分に至らぬ後進のために作品や著作を残してくださっているものだ。

それでいつも独学だ。

出来たら直に人から物を教わりたい。

しかし、学びたい時に教わりたい物を教えてくださる人と出会うことがない。

自分は昔から鈍感なのかチャンスをチャンスと気づかない。

チャンスを生かせないアホだ。

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未来を予言する絵

「芸術においては、始まりもなく、終わりもないのだ。ただ、絵画だけが先んじていなければならない。常に!未来を予言するのでなければ、絵画には全く意味がない」とランスコイは言うけれど、未来を予言するために絵を描く人は無いと思う。

結果的に先んじているだけなのだろう。

希望としては先見性のある作品にしてゆけたら、とは思うが難しいな、今の力では。もっと力が必要だ。先輩から学んで滋養と栄養をもっと取らなくちゃ。

輪のある黄の景

寒いと黄色が見たくなる。

黄色の絵
おはようございます。ちょっとお腹の調子が変なシュンです。

色彩に錯覚はつきものです。

同じ色でも明るく見えたり、暗くみえたり、色味が変わって見えたりします。

この絵はそうした錯覚を多用して描いた作品ですが、見る人はきっと、はじめから絵が出来てる状態で見ているので錯覚だと思わないかもね。

こういうのを描いているときには、つくづく色って面白いよなぁ、と感じるものです。

こもる熱

色を塗ろう。

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最近はね、色ぬりはipadで描くことが多いです。こういう機械技術を僕は待っていました。

そういうのを使って描いたのをデジタル作品っていいますね。

10年前は、こんな簡単に、瞬間的にコンピューターで色を塗ることなんて出来ませんでしたし、考えもしませんでした。

色を塗るのは瞬間的に出来てこそ意味があると思うんです。というのも色彩の世界は思考を越えたその先の表現であるからです。

最大のメリットは、画材に左右されず描くことができるってことです。絵の具の場合は自分の持ってる絵の具に、出す色が左右されます。持ってる色の範囲内でしか表現できないわけです。

デジタルで描くようになってから、そうした画材主導の色彩表現から、純粋に画家の意思主導の色彩表現が出来るようになりました。